「きょうはぼくたち」「わたしたちの」
「へいえんしきに来てくださってありがとうございました」
壇上の子どもたちが大きな口をあけて口上を述べる。その中段の列の真ん中には僕の子どももいる。
きょう、僕の子どもの通う、そして僕も通ったこの幼稚園は、70年の歴史に幕を閉じる。
気象庁と自治体の計算で白い砂の侵食が予想より速くなることがわかり、移転の必要に迫られたのだ。
かつて海のむこう、地平線のはるかかなたにわずかに見えていた白い砂は、少しずつ速度をあげて僕らのほうへ向かってきた。近年つづく異常気象のせいか、地軸の傾きの変化のせいなのかはわからない。
そして砂は地平線とぼくらの間にあった海や、岩礁や、山や、街や、家を、文字通り音もなく侵食していった。
砂が飲みこんだあとには何も残らない。彼らと同じようにさらさらとした乳白色の砂だけがのこる。
僕は園庭のすべり台に手をかける。そこから向こう側にある人工的につくられた山に目をやる。すべり台の一番高いところが目線の高さほどしかないことに驚く。山だと山だと思っていたものが丘程度のものであることに驚く。
ぶらんこに座る。空に放り投げられてしまうと漕いだぶらんこが、僕を載せてこんなにも重く、鈍くしか振れないことに驚く。
僕たちの幼稚園は海のすぐそばにあって、当時僕の住んでいた家は幼稚園に並んで2,3軒先のところにあった。
だから外遊びのために園庭に出て金網に鼻先をくっつけると、まだ存命していた僕の大好きなじいちゃんが薪を割っている姿がしばしば見えた。
じいちゃんも僕らに気づくと園庭の金網に寄ってきて、海を背負いながら、おう、遊んでるか、おうおう、と笑った。
僕はそのたびにじいちゃん、ぼく家に帰りたい、じいちゃんと遊びたい、とせがんだのだそうだ。
そのたびにじいちゃんも涙目で先生たちに、なんとか今日だけ、今日だけこいつを早く帰らせるのをゆるしてくれ、と頭を下げて僕を迎えに来たのよ、と当時の担任の先生は笑って教えてくれた。
潮の匂い。薪ストーブの匂い。僕の手をひくじいちゃんの匂い。
当時のアルバムの顔をみれば、楽しかった日々のほうがたしかに多いはずだ。
なのに今思い出そうとすると、先生に怒られて物置部屋に入れられたことや、泣いたこと悲しかったことばかりが鮮やかに浮かび上がってくるのはどうしてなんだろう。
ピアノの伴奏が鳴る。子どもたちが幼稚園へお別れの歌をうたう。彼らは「歌をうたう」という今この瞬間あたえられた命題に精いっぱい取り組んでいる。きらきらした目はまっすぐ前だけを向いている。
今日という日が終わればいずれこの校舎も白い砂にのまれる。
僕たちの夜の寝息にかき消されて、白い砂の進行はだれにも見えない。聴こえない。
室内用具も園児たちもすっかり高台の幼稚園に移りきったころ、僕の子どもが僕と同じ歳になったころ、僕の子どもと同じ歳の子どもを持ったころ、僕たちはいつの間にかやってきた彼らを初めて振り返り、ああ、と嘆息をもらすだろう。
それでも時おり白い砂の上に降りたち、愛おしそうに手にとって転がすだろう。
うす乳白色のさらさらとした粒子の中にかすかにきらめく、高い高い滑り台を。園庭の巨大な山を。空に届きそうなぶらんこの鎖を。薪ストーブの匂いを、家族の匂いを、それらすべてを包む潮の匂いを。
かつてそこにあったものたちの手触りを。